エドウィン・ダンえどうぃん・だん 1848~1931

北海道酪農の父

エドウィン・ダンは、嘉永元年(1848年)にアメリカオハイオ州で生まれマイアミ大学を卒業しました。明治6年に「開拓使農事方教師」として開拓使と契約を交わし、14台の貨車を用いて92頭の牛、100頭の羊、農耕具と共に来日しました。来日後は、 東京官園に勤め、開拓使官吏や北海道へ行くものたちに欧米式の近代農法や獣医学の技術指導にあたりました。

明治8年5月から10月の間、ダンは七重官園へ出張することになり、ここで馬の去勢術や農業全般について指導します。はじめは、気性の悪い馬を去勢によって温和にし、同時に遺伝子を残さぬよう淘汰するということが、日本の「気性の悪い馬を乗りこなしてこその馬術」という考えにあまり浸透しなかったのですが、馬術の第一人者であった函館大経がダンの理論(というより欧米の獣医学)に理解を示したことにより、馬の去勢は次第に受け入れられるようになりました。

また、ダンは七重出張中に「松田 鶴」という女性と出会い、後に当時では珍しい国際結婚をしました。鶴は青森県南津軽郡尾上村出身の女性で、ダンの「回想録」の中で、日本女性の鏡と称えられています。残念ながら若くして亡くなってしまいますが、ダンに日本へ永く留めさせる決断をさせる出会いでした。

明治9年からは札幌へ出張し、牧羊場や真駒内牛牧場の設置に尽力するとともに、北海道の気候に適合する農作物の栽培実験やバター・チーズ・練乳の製造およびハム・ソーセージの加工技術を指導しました。こういった功績から、ダンは「北海道酪農の父」と称されます。

明治16年、アメリカへ帰国するが、北海道での功績をかわれ、翌年にアメリカ公使館二等書記官として再来日します。晩年は公使を辞め、米国系石油会社の日本支配人となったりしましたが、1931年5月15日、東京の自宅でその生涯を閉じました。

七飯町歴史館